2014 vol.1 あれから、3年
日時:2014.1.25(土) 場所:菩提院 参加者数:75名
3回目の3月11日が近づく時期の未来会議。 「あれから、3年」というテーマで語り合いました。
それぞれに大切なものがある [未来会議inいわき 2014年1月25日@菩提院]
高校生、お母さん、農家、強制避難の方、それぞれの想い、様々な立場に耳を傾けてみる時間
震災と原発事故は今も、人・もの・心に大きな被災をもたらしています。この地域では、市内外から仮設や見なし住宅に入居の方、原発復旧や除染作業に全国から来られる方、支援に通われる方、この方々を生活圏に受け入れるいわき市民。実に様々な方が共に暮らすようになりました。さらにはこの地域から避難される方もいるという複雑さも併せ持つ社会となっています。そこには、復旧状況や賠償の差異・復興や安全に対する捉え方・判断の相違などの様々な違い」が存在し、各々が真剣に大切なものを守ろうとするほど分断や対立が生まれ、それに疲れ、沈黙が互いを傷つけない手段となるなど、分断が深まる構図が広がっています。 「『違い』や『仲間』との出会いで響き合うことができたら・・」そんな思いから、未来会議は始まりました。個を活かしたモザイク画をみんなで描く真っ白なキャンバスのような場。誰もが居ることを許され、声に耳をかたむけ、安心して思いを伝えられ、新たな視点を得たり、仲間と出会えたり、自分を見つめ直したり、何か始めるきっかけとなったり、始めたことが失敗しても戻って来られるニュートラルな場。そんな「場」を開き続けたい。2013年、有志で立ち上げた未来会議は、試行錯誤の中で回を重ね、延べ450名以上が参加。そこからプロジェクトやコラボレーションがいくつも生まれました。 2シーズン目の今年1月、未来会議は新たな形でスタートを切りました。『もうすぐ3年、私たちは今』というテーマで市民ゲストの方々に体験や思いをお話しして頂き、石原明子氏(熊本大学/紛争変容・平和構築学)と三倉信人氏(公益財団法人東日本大震災復興支援財団)に外から視点でのご意見を伺い、その後、参加者も一緒にワークショップ形式の対話を行いました。ファシリテーターは昨年から続き田坂逸朗氏が担当。この日は、カレーキャラバンがやってきたり、マルシェが登場したりのお楽しみもたくさん!「それぞれに大切なものがある。」それを尊重することの大事さと、違いを越えて話す難しさを噛み締め、現実を見つめ受けとめながら、模索の一歩となりました。(霜村 真康)
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★ トークゲストの方を中心に、開場で発された声の一部をご紹介します★
◆ 高校生の、いわき再発見
瀬戸 葵さん(福島県立磐城桜が丘高校3年)
「都会に住みたーい」って思う人たちがいっぱいいます。高いビルがあって大きい映画館があって、人がいっぱい集まってるところに住みたい。私も含めて同年代の人は、みんなそうだと思うんです。
中学2年か1年のころ、先生が「大人になっても福島、いわきに残る人!」と質問しました。30人ぐらいいて、手を挙げたのは1人か2人。どこに行くのと聞いたら「東京」って。私も、大人になったら外に出て行くと思っていました。 震災が起きて、私は困っている人になにもできなかった。大人が給水をしているのをただ見ているだけで、すごく自分が無力に感じたんですね。そんなとき、いわきの観光客が震災前の3分の1に減ったと聞きました。ある友達が「高校生みんなでガイドをしよう」「他の地域から人を集めよう」と言って、ツアーを企画することになりました。 それまで私は、いわきに「人がいい」「みんな家族みたい」ぐらいのイメージしかなかったですが、魅力を改めて調べたんです。色々な人に会い、土地、施設を知りました。もしかしたら、ここは都会や東京なんかよりもずっとずっと、すごいところなんじゃないかなって思うようになりました。ツアーのお客さんからも「良いところ」と言ってもらえたし、それはみんな共感することなんです。 観光客が減ったことはマイナスだけど、それに私たちは動かされました。地元の人がいわきの良さにもっと気づいて動けば、減る前より多くなるかもしれない。失ったものはたくさんあるけれど、得たものもある。皆さんも一緒に何かを得るために、行動しませんか。
◆ 手探りで、野菜をつくる
折笠 明憲さん(専業農家)
いわき市の遠野町で農業を専業でやっています。 農業を始めて2年目に地震がありました。一番最初は何が起こったかわからない。山の中なので津波もなく、水もガスも止まらず普通に生活していました。メルトダウンが起きて、農協から言われたのは「畑を動かすな」「物を採るな」「出荷するな」「食べるな」。シュンギクなどをつくっていましたが、全部出荷は停止。ホウレンソウから放射性物質が出たという発表があり、福島県の農家さんたちにはすごく大きいショックだったと思います。放射能という未知のものに一番恐怖を覚えたのは農業、水産業、林業の方だと思いました。 食べられるかわからない、検査もはっきりしていない。真っ暗な、明かりもないような状況で田植えをやっていました。その年の秋口、全量検査をやってもう大丈夫です、といった2日後、また出ました。ここでやっていくにはどうしたらいいべ、と話し合いをしました。「地産地消」は難しい言葉になった、と私たちも考えています。でも、いわき産は世界のどこにでも出しても恥ずかしくない。安全だと証明し、胸を張れるものをつくっています。子どもに農業を知ってもらいたいから、保育園に出張して、買ってきた安全な土で作物がなるところを見せる取り組みもしています。 現場に来てもらい、安全を確かめてもらうことはすごく大切です。厳しい検査をしているのに、それを知っている人はまだ少ない。農業は第一次産業、根本的なものであって、捨てるわけにはいかない。ここで頑張っていけることを証明したいと思っています。
◆ 帰れない家、別れに寄り添う
平山 勉さん(音楽プロデューサー)
自分は富岡町の人間です。「双葉郡の人の声も聞きたい」と言われたので来ました。 双葉郡からたくさんの人が県内外に避難しているなかで、「相双ボランティア」という任意団体をつくり、一時帰宅や引っ越しをする住民のため、双葉郡内でお手伝いするボランティアをしています。帰還困難区域の中にも入ります。ぐしゃぐしゃになった家の片付けや草刈り、移住のために家具や思い出の品を持ち出す手伝いをします。 旧警戒区域が再編され、自由に入れるところと入れないところが出てきた。避難している人は「戻るか、移住するか」の選択肢で分かれていく。帰還困難区域の人はほとんど、もう帰れない、引っ越すだろうということになる。でも、帰れないからといって、ぐしゃぐしゃ、荒れ放題のままで引っ越してしまっていいか。親しみと愛着のある家なら「ちゃんときれいにしてからお別れしましょう」という考え方があります。双葉郡の住民にボランティアを呼びかけました。依頼する人も、地元の人がいた方が安心する。なまりも聞けるし。なるべく地元の人に参加してほしい。 活動を決心したきっかけの一つは、富岡町から避難した障害者施設のドキュメンタリーでした。その中で、ある人が言いました。「富岡町の方が今までのようにみんな仲良くやっていけることを希望します。そのころには私は生きていないでしょうけど」。脳天を打ち抜かれました。住めるようになるころ、70代より上の方たちはもう生きていない。その方たちのために何ができるかを考え、相双ボランティアを始め、進めていきたいんです。
◆ 惑った日々、取り戻した日常
(いわき市在住・母親 )
私はいわゆる自主避難者でした。上の子が震災当時2歳、下の子が11ヶ月でした。3月16日に主人の両親と私たち家族で郡山に行き、そこで1カ月過ごしました。放射線量が下がっていくように思えず、4月末に仙台の実家のマンションに身を寄せました。「子どもの足音や泣き声がうるさい」と苦情があり、7月からは別のアパートで母子3人の生活をスタートしました。 何を信じていいかわからず不安に振り回され、育児と家事の負担が一気に私の肩にのしかかりました。「安全」という言説には違和感、怒りを感じました。母子で大変な生活をしているのに、安全であればこんな思いをしなくていいわけだから。自己正当化がしたかったんですね。ここまで言っていいかわからないですが、「福島にいる子どもたちに何か起こってもらわないと困る」という感情があった。けれど、自己正当化のために他人を貶めてはいけない。本気で今の状況を、事実を基に勉強しなくてはいけない、と思いました。 500件ぐらいの生データを読みこむうち、自分の元々のイメージで行動を取捨選択することがある、と気づきました。「思考は感情に引っ張られる」と自覚し、情報を検証して生活に生かすことが大事だと。 「子どもを守りたい」という言葉は、個人的にあまり好きではないです。私がどうしてこんな対応や行動をしたか、「影響はわからない」という曖昧さでごまかさず、将来に我が子にきちんと説明したい。自主避難は2年間に及びましたが、昨夏にいわきに戻りました。自分自身の不安はほぼ解消されました。家族全員で過ごせる喜びを感じています。
◆被ばくの不安、絶え間ない『線引き』
(いわき市在住・母親)
原発事故から3年がたち、子を育てる母親として、ますます被ばくの不安について声を上げにくい状況が続いています。「不安だと言うのは勉強不足」との圧力が、復興という言葉の裏で強まっているとも思います。 震災の翌日、県外に避難しました。子どもの学校が始まることもあっていわきに戻りましたが、引っ越そうかと悩んだ期間も長く、今もこのまま住み続けると決断したわけではありません。学校の除染をしてほしいと言っても、学校側からは、他の保護者の不安を煽るなとたしなめられました。放射能を気にするかしないかで「こっち側」「あっち側」と線を引き、顔色をうかがって接するようになったと思います。 1年目は子どもを屋外で活動させず、3年目には少しだけならと公園でも遊ばせるようになりました。ただ、いまも炊飯や味噌汁にはペットボトルの水を使い、食材も福島県産かどうかに限らず、放射線量の低い地域のものを使うようにしています。自然に触れ合う生活をさせたい思いと、被ばくを避けるために気をつけ続けることのせめぎ合いです。「気にする必要はないんじゃないか」と思いそうな時もありますが、色々調べると「わからない」ことが多く、それならば、出来る限り避けよう、と思い直すんです。 今もいわきから避難を続けている人は多く、現状に不安を感じてもおかしくないのに、それを口にしにくい。それが大きなストレスになる。「自分は正しい」と思うことは、周りの否定につながりがちです。自らどう行動すべきか、常に検証し続けるのは疲れますが、この立ち位置を保つしかないのでしょう。
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★ ファシリテーターからのコメント ★
自分の揺れ動きを、 それごと愛せるように。 終わりなき語りあい
3.11から3年たって、捉え方や考え方、放射能との向き合い方はますます多様化しています。後半のワールドカフェの基調を探る前半のゲストトーク。ひとりずつ話題提供とその都度のバズセッション。ひとりひとりに、変わらないもの、変えるわけにはいかないものがあり、いっぽう他者にも別の、変わらないもの、変えるわけにはいかないものがある、ということがトークを通して見えてきます。「心が痛い」とゲストのおひとりの方。 後半の全員ワールドカフェでも、結論を保留しよう、と呼びかけました。正解をひとつに決める以上にたいせつなことがある、決められない自らを責めてはならない、だから、語りあいましょう、と。自分の揺れ動きを、それごと愛せるように。終わりなき語りあいでした。 (ファシリテーター:田坂逸朗)
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★ ゲストからのコメント★
未来会議では、ゲストコメンテーターをお呼びし、 様々な分野の知見を頂きながら、福島のこれからを共に考えます。 今回来て頂いたお二人からのコメントを紹介します。
石原 明子氏 (熊本大学 紛争変容・平和構築学)
菩提院の大広間には100人近くの人が、畳の上に座っていた。老いも若きも子供もが思い思いの格好で座っている様子は、なんとも“まったり”したものだった。しかし、そこに聞こえる大切な声を聴きもらすまいとして、互いに心の奥底の声に耳を澄ませていることが伝わってくる。震災から今までのことを語る代表スピーカーの方からの声。母として子のいのちとそれを取り巻く矛盾を見つめ行動に押し出されてきたお話、農家の方がすべてのいのちを育む土が汚染されてしまったことにどう向き合ってきたか、双葉郡の方の避難して残してこられた自宅の片づけや草刈り、思い出の品を持ち出す手伝いのボランティアを立ちあげたお話。一見すると、各人の主張は異なった立場であるように見える。しかし、その裏にあるいのちへの慈しみとだからこその悲しみと、それを包む優しさと知恵みたいなものが、それぞれのお話の奥底から聞こえてくる。意見の違いと同時に、その奥底の共通した祈りに、聴衆が耳を澄ませて聞いている。胸がつまる。そして、各人の心の中で対話が始まる。 その後、参加者も含めて、みんなで対話をする。双葉郡から避難されてきた方、いわきの若者や行政の方、そればかりか「東北には今日生まれて初めて来たんです」という東京の方まで。子どもから、じいちゃん、ばあちゃんまでが、震災やいわきについての思いを語り合う。未来会議というが、参加者は、震災前も含めた過去と、今と、未来を思い思いに語り、耳を傾ける。「ふだん震災のことを話す場がないんだけれど、ここに来ると話せる」と、対話の時間のあと心なしか晴れやかな表情になっている50代の男性。毎回100名程度の参加を得てきた未来会議ではあるが、その運営は決してサクセスストーリーだけではないようだ。運営メンバーの一人の方の言葉が印象に残った。「震災後のことって、深く話そうとすればするほど、傷つかずに話すことは無理なんだろうか」「震災後、いわきにもさまざまな異なった思いときに分断と呼ばれるものがあるけれど、いろんな声をこの場に招きたいんです」 そこにある痛みに向き合って、大切にして、でも希望を失わない未来会議だから、すごいと思う。いや、希望を失わないからすごいのではない。痛み自体の中にこそ、希望の種があるってことを、参加者の方々の生き方と語り合いが教えてくれた。
三倉 信人氏 (公益財団法人東日本大震災復興支援財団)
対話からはじまる地域の復興を期し、福島県内の各市町村を中心に公益財団法人東日本大震災復興支援財団が実施してきた「芋煮会ワークショップ」がキッカケとなり、4人のいわき市民が発起してはじまった「未来会議inいわき」。昨年は5回に渡って対話の場づくりをご一緒させていただきましたが、2014年1月25日は初の事務局による完全自主開催となりました。テーマは、「もうすぐ3年、私たちは今」。 「課題先進地」であるいわきの地で、30年続く市民のための対話の場づくりというのは、多くの被災者にとって途方も無い話に聞こえるかもしれません。しかし、昨年から始まったこの「場」が、人と人とを繋ぎ、人が人を呼び、その生活や考え方、生き方に小さな変化や大きな動きは確実に生まれています。例えばそれは、回を増すごとに地元いわきの高校生参加者が増え、この対話の場をひとつのキッカケに自発的にアクションを起こし、大人達をも巻き込みながら、目の前の地域課題に向き合っている姿や、双葉地区から転居している方といわきの住民とが強烈な友情で繋がっていく様子にあらわれていると思います。行政の方・子ども・お母さん・学生、色んな大人達がごちゃまぜのこの場が、回を重ねても毎回物凄い数の参加者を誇っている事実も含め、一年強をかけて培ってきた求心力と遠心力が大きく形になり始めている空気をひしひしと感じていました。 2013年の活動を纏めあげた報告書の中で、今回もファシリテーターを務められた田坂逸朗さんがしたためられた寄稿には、「議論は終わらせるために行うが、対話は続けるために行うもの」とあります。東日本大震災から丸3年が経過したいま、この対話の場が復興への大きな胎動となっていくことを心から願っています。